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【2024/05/10 17:13 】 |
河野氏(こうのし / かわのし)
河野氏(こうのし / かわのし)は、守護大名、戦国大名となった伊予国(愛媛県)における有力豪族で、越智氏の流れを汲むという。
室町時代以降は代々湯築城を居城としてきた。一族の来歴を記した文書「予章記」はその虚実入り交じった不思議な内容(鉄人伝説など)で有名である。
他に2系統が存在する。
三好義長を遠祖とする、芥川長明の子、芥川季範が河野氏を称する。
桓武平氏 良文流 河越氏の流れを汲む河越重家が子孫が河野氏を称する。
概要

河野氏は河野郷(現在の松山市北条付近)を出自とする。当初は国衙の役人として活動していたと考えられているが、源平合戦で源氏に味方したことで鎌倉幕府の御家人となり西国の部将でありながら大きな力をつけた。その後、室町期に道後に湯築城を築き本拠を移した。根拠地の伊予が地政学的にも周辺諸国からの介入を受けやすい位置にあったこともあり内乱を繰り返すこととなった。その結果勢力を削ぐこととなり、戦国大名として変移できなかった典型的地方豪族といえる。河野宗家は、代々湯築城を拠点としていたが、河野水軍の本拠地は松山市三津、港山の一帯であった。この地理的な距離が宗家と分家(水軍衆)との亀裂を生んでいたとも思われる。なお河野氏の菩提寺は旧北条市の善応寺である。湯築城へ移転するまでは、善応寺の双子山城を本丸として支城に恵良山城、鹿島城、大山寺城、高縄山城などを有していた。
一時河野家の兵力は、瀬戸内最大規模の水軍となり、河野水軍とも呼ばれた。これは、道前平野での稲作による豊富な食料確保が可能であったからであり、島嶼部に拠点を置いた他の水軍との大きな相違点でもある。有名な村上水軍は、形式的には河野氏の配下であるが、独自での活動も活発であり必ずしも従属関係にあったわけではない。伊予の水軍は大三島の大山祇神社を崇拝し、祀りを執り行うことが習いであった。
平安・鎌倉時代

平安時代の末期は、平清盛率いる伊勢平氏の傘下にあったが、その後、源平合戦においては河野通信が河内源氏の流れを汲む源頼朝に協力して西国の伊勢平氏勢力と戦った。鎌倉時代になり承久の乱のとき、反幕府側の後鳥羽上皇に味方したために一時的に衰退したが、元寇のときに勇将・河野通有が活躍してその武名を馳せ(河野の後築地・"うしろついじ"として有名である)、河野氏の最盛期を築き上げた。
南北朝・室町時代

南北朝時代には、四国へ進出し伊予へ侵攻した細川氏と争う。河野通盛は足利尊氏に従い伊予守護職を手にしたが、河野通朝は細川頼春の侵攻を受け世田山城で討ち死にした。子の通尭は九州に逃れ、南朝勢力であった懐良親王に従い伊予奪還を伺う。幕府管領となった細川頼之が1379年の康暦の政変で失脚すると、河野氏は南朝から幕府に帰服し、頼之追討令を受けて細川方と戦う。その後頼之が幕府に赦免されると、1386年には3代将軍足利義満の仲介で河野氏は細川氏と和睦する。
室町時代には度重なる細川氏の侵攻や予州家との内紛、有力国人の反乱に悩まされた。河野通久の時代に、河野通之の子通元の予州家との間に家督相続争いが起こった。この争いはその後も続き、管領職が代わる事に幕府の対応が変わるなど情勢が混迷を極めた。本家河野教通と予州家の河野通春の争いは瀬戸内を挟んだ細川氏、大内氏を巻き込んだものとなったが、応仁の乱のさなか、本家の教通が伊予守護職を確保し、通春没後に予州家は没落した。
戦国時代・安土桃山時代

戦国時代に入ると、予州家との抗争は終息したものの、有力国人の反乱や河野氏内部での家督争いが相次いで起こり、その国内支配を強固なものとすることはできなかった。16世紀前半の河野氏宗家の当主・河野通直(弾正少弼)のとき、家臣団や有力部将来島通康を巻き込む形で子の河野晴通と家督をめぐって争いが起こる。この争いは晴通の死で収束したが、これにより河野氏はさらに衰退してゆくことになる。結果的に、来島村上氏や平岡氏、能島村上氏といった新たに台頭した有力国人勢力に政権運営を強く依存する形となり、末期には軍事的にも毛利氏の支援に支えられるなど、強力な戦国大名への脱皮は叶わなかった。
国内には喜多郡の宇都宮豊綱、大野直之、宇和郡の西園寺氏らの河野氏に属さない勢力が存在し、また、土佐の一条氏、豊後の大友氏、讃岐の三好氏との間に争いが続くが、同盟、縁戚関係を築いた安芸の毛利氏の支援を強く受けることとなった。その後も、長宗我部氏の侵攻や1581年の来島通総の離反など苦難は続いた。1585年、豊臣秀吉の四国征伐において、通直(伊予守)も小早川隆景の説得を受けて降伏し、通直は大名としての道を絶たれ、新たな伊予支配者となった小早川隆景の元に庇護された。そして1587年、通直が竹原で嗣子無くして没したため、大名としての河野氏は57代をもって滅亡した。
河野氏遺臣の再興のための戦い

1600年には関ヶ原の戦いに呼応して、安芸の毛利、村上勢(村上掃部頭元吉(村上武吉の長子)軍団)と、四国に残留した平岡勢が協同して、慶長5年8月28日に加藤嘉明の居城正木城に軍勢およそ二千余騎で攻め寄せるが、守将佃十成の計略にはまり、上陸地点である三津で夜襲を受け、完全に撃破されてしまった。これを「刈屋口の戦い」または「竹原崩れ」という。この後も荏原城などで残党が篭城するが、関ヶ原の戦いはすでに東軍勝利で終わったため、完全に駆逐されていった。
河野氏主要名簿

系図

┃     通信     ┣━━━┓     通久 別府通広     ┃   ┃     通継  一遍     ┃     通有     ┃     通盛     ┃     通朝     ┃     通尭     ┣━━━┓      通義  通之     ┃   ┃     通久  通元 ┏━━━┫   ┃ 通生  教通  通春 ┃   ┃   ┃ 明生  通宣  通篤 ┃   ┃   ┃ 通吉  通直  通存 ┃   ‖   ┣━━━┓ 通直  通宣  晴通  通宣     ‖      通直
晴通、通宣(左京大夫)については通直(弾正正弼)の実子と言う説有
通直(伊予守)のについては来島氏からの養子とする説もある。
庶家

河野氏主要家臣団(戦国期)

河野諸氏末裔

秋山好古
秋山真之
正岡子規
馬越恭平
河野淳吾(Jリーガー)
河野直人(Jリーガー)
大石尚子(衆議院議員)
参考文献

川岡 勉・西尾和美『伊予河野氏と中世瀬戸内世界 戦国時代の西国守護』(愛媛新聞社、2004年) ISBN 4860870255
川岡 勉『中世の地域権力と西国社会』(清文堂、2006年) ISBN 479240603X
川岡 勉『河野氏の歴史と道後湯築城』(青葉図書、平成4年)ISBN 4-900024-07-4
こうのし こうのし * こうのし こうのし
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
Text is available under GNU Free Documentation License.

戦国武将一覧

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【1970/01/01 09:00 】 | 大名 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
少弐氏
少弐氏(しょうにし)は、日本の氏族の一つ。筑前、肥前など北九州地方の御家人・守護大名。藤原北家の秀郷の子孫と称する武藤氏の一族。
経歴

出自

少弐氏は、武藤資頼が大宰府の次官である大宰少弐に任命されたことから始まる。資頼は藤原秀郷の流れを汲む武藤頼平の猶子となって武藤の名跡を継ぐが、資頼の出自は不詳である。その意味では、少弐氏は、資頼の養父の武藤頼平の家系からすれば、頼平の先祖である藤原秀郷の後裔になるが、資頼の血筋からすれば、先祖不詳ということになろう。
平安時代末期から鎌倉時代

武藤資頼は平知盛に仕えた平家の武将であったが、一ノ谷の戦いの時に源氏方に投降し、その後、許されて源頼朝の家人となる。平家滅亡後、大宰少弐に任じられ、平家方であった九州の武家に対する鎌倉方の抑えとして鎮西奉行をはじめ、北九州諸国の守護となる。この源頼朝による抜擢が、その後の少弐氏の興隆のきっかけである。
鎌倉時代の文永11年(1274年)、弘安4年(1281年)に元寇が起こり、資能は子の少弐経資や少弐景資らとともに戦い、孫の少弐資時は弘安の役の時壱岐で討死している。戦後には筑前・豊前・肥前・壱岐・対馬など北部9州における最大の守護大名にまで成長して、少弐氏の最盛期を築き上げた。
鎌倉時代後期

少弐資能の死後、経資と景資との間に家督をめぐっての争いが起り、弘安8年(1285年)に鎌倉で御家人の安達泰盛と内管領の平頼綱が対立して霜月騒動が起こると、景資は泰盛の子の安達盛宗とともに、頼綱側についた経資と戦い敗死する(岩門合戦)。その後、鎮西探題が設置されて北条氏の力が西国にも及ぶようになると、少弐氏もその配下とされ雌伏のときをむかえる。
鎌倉時代末期の元弘3年/正慶2年(1333年)に後醍醐天皇の討幕運動から元弘の乱が起こると、少弐貞経は大友氏らとともに討幕運動に参加し、鎮西探題を攻撃する。鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇による建武の新政が開始され、新政から離反した足利尊氏が建武3年(1336年)に京都から駆逐され、九州へ逃れると、貞経の子の少弐頼尚は尊氏を迎えて赤間関へ赴くが、その最中に宮方に属した肥後国(現在の熊本県)の菊池氏が大宰府を襲撃して父の貞経を滅ぼした。頼尚は足利方とともに多々良浜の戦いにて菊池武敏らを破った。
南北朝時代

南北朝時代には、頼尚は九州における足利勢力の九州探題一色範氏とも衝突する。足利家の内紛から観応の擾乱が発生すると、頼尚は九州へ逃れた足利直義の養子である足利直冬に娘を娶わせて接近する。多々良浜の戦いで敗北した菊池氏は南朝が征西将軍として派遣した懐良親王を奉じて勢力を拡大しており、少弐氏は正平14年/延文4年(1359年)の筑後川の戦いで征西府・菊池軍に敗れて大宰府を奪われる。
室町時代

九州における南朝方の勢いが盛んになると頼尚の子は北朝方と南朝方に分かれそれぞれに味方した。しかし、北朝方についた少弐冬資が、新たに九州探題として派遣された今川貞世(了俊)により水島の陣で謀殺されると、南朝方についた少弐頼澄の下で一致団結し反今川勢力として活動した。南朝の勢力が衰退し、今川貞世が帰国した後は、代わって九州探題に就任した渋川氏の援護と称して周防の大内氏が北九州にたびたび侵攻するようになり、少弐氏は豊後の大友氏や対馬の宗氏と結び抵抗し、一時は大内盛見を討ち取って勝利をしたこともあったが、その後はたびたび敗北し、少弐満貞、少弐資嗣、少弐教頼などが戦死している。
戦国時代

戦国時代に入ると、大内氏の侵攻はますます激しくなった。少弐氏は大内氏の侵攻を懸命に防いでいたが、次第に劣勢となり、第15代当主・政資が大内氏によって討たれて一時滅亡する。後に政資の子である少弐資元が第16代当主として少弐氏を再興するも、大内氏の優勢を動かすことは困難であり、拠点を肥前に移さざるをえなくなる。当時の肥前は九州千葉氏が支配していたが、その内紛に乗じて同氏の領地を奪い、さらに大内氏が中央での政争や出雲の尼子氏との抗争に忙殺されている隙をついて一度は勢力を取り戻した。だが、今度は家臣の龍造寺家兼の台頭と謀反(一説には龍造寺氏は九州千葉氏の旧臣ともいう)にあって次第に衰退してゆく。少弐資元は、大内氏の侵攻に耐えられなくなって遂に大内義隆に降伏した。しかし、義隆に欺かれて自害を余儀なくされ、少弐氏は一時、滅亡した。
滅亡

資元の子で第17代当主を継いだ少弐冬尚は少弐氏を再興したが、龍造寺氏の謀反に対しては、家臣の馬場頼周に龍造寺氏討伐を委ね実権をなくしていく。家兼の後を継いだ龍造寺隆信もまた謀反の立場を鮮明にして、冬尚は永禄2年(1559年)、勢福寺城を隆信に攻められて自害を余儀なくされた。これにより、鎌倉時代から続く名族・少弐氏は完全に滅亡したのである。
少弐冬尚の弟・少弐政興は永禄6年(1563年)から馬場鑑周など旧臣の支援のもと、少弐氏再興戦を有馬晴純・波多鎮・大村純忠・多久宗利・西郷純尚などの肥前の武将達と共に、龍造寺隆信と戦う。
しかし、永禄7年(1564年)に龍造寺勢の猛攻で肥前中野城に籠るも馬場鑑周は降伏する。その後、政興は大友氏の支援を受けながらなおも隆信と戦うが、元亀3年(1572年)に隆信によって肥前を追われ、少弐氏再興の野望は潰えた。
少弐氏一族

武藤資頼【初代】
少弐資能【2代】
少弐経資【3代】
少弐景資
少弐盛経【4代】
少弐貞経【5代】
少弐頼尚【6代】
少弐直資【7代】
少弐冬資【8代】
少弐頼澄【9代】
少弐貞頼【10代】
少弐満貞【11代】
少弐資嗣【12代】
少弐嘉頼【13代】
少弐教頼【14代】
少弐政資【15代】
少弐高経
少弐資元【16代】
少弐冬尚【17代】
少弐政興(基本的に政興は当主として認められてはいない)
系譜

凡例 太線は実子。細線は養子。
(武藤氏、少弐氏)      頼平      │      資頼      ┃     資能      ┣━━━┓      経資  景資      ┣━━━┓      盛経  資時      ┣━━━┓      貞経  資法      ┣━━━┓      頼尚  頼賢      ┣━━━┳━━━┓      頼澄  冬資  直資      ┃      貞頼      ┣━━━┓      満貞  頼房      ┣━━━┳━━━┓      教頼  嘉頼  資嗣      ┣━━━┓      政資  胤資      ┣━━━┓      資元  高経      ┣━━━┳━━━┳━━━┓      冬尚  胤頼  政興  元盛
庶家

鍋島氏
馬場氏
筑紫氏
横岳氏
朝日氏
少弐氏方の人物

少弐支族

朝日氏
朝日資法
横岳氏
横岳頼房
横岳資貞
横岳資誠
馬場氏
馬場頼周
馬場政員
馬場鑑周
筑紫氏(支族ではないとする系図もある)
筑紫教門
筑紫満門
その他

肥前小田氏
小田資光
小田政光
小田鎮光
小田賢光
神代氏
神代勝利
神代長良
神代家良
江上氏
江上元種
江上武種
多久氏
多久宗時
多久宗利
宗氏
宗貞盛
宗盛国
宗貞国
その他
高木鑑房
執行種兼
関連氏族

渋川氏
大内氏
九州千葉氏
龍造寺氏
外部リンク

武家家伝_少弐氏
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
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宇都宮広綱
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大関高増
大田原綱清
千葉胤富
里見義堯
里見義頼
上泉信綱
由良成繁
北条早雲
北条氏綱
北条氏政
北条幻庵
北条氏秀
北条綱成
石巻康保
粟屋元隆
宇佐美定満
斎藤朝信
柿崎景家
直江景綱
直江兼続
新発田重家
椎名長常
畠山義綱
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長連龍
温井景隆
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