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【2024/03/29 02:17 】 |
慶長出羽合戦とは?
 慶長出羽合戦 (けいちょうでわかっせん)は、慶長5年(1600年)の天下分け目の東西合戦において、出羽国で行なわれた上杉景勝 (西軍)と最上義光 ・伊達政宗(東軍)の戦い。 上杉氏と最上氏 天正12年(1584年)、最上義光 は大江氏、白鳥氏、天童氏を破り、一気に最上地方を北進して制圧。現山形県の村山、最上地方を制圧した。置賜地方は血縁関係のある伊達氏の支配下にあり、迂闊に手を出せないことから北進し、庄内地方の制圧を目指した。庄内は武藤氏が代々支配していたが、義光は積極的に介入し制圧を目指した。これに対し、武藤義興は越後の本庄繁長 を頼った。天正15年(1587年)に発生した親最上派による謀反に介入し、武藤義興を滅ぼして庄内を制圧する。しかし、落ち延びた武藤義勝(本庄繁長 の子)は、翌年繁長と共に庄内奪回を目指して進攻、不意を衝かれた最上勢は大敗し庄内地方は上杉氏配下の本庄繁長 の支配下に置かれた。天正18年(1590年)の奥羽仕置により、庄内地方は上杉氏の領地として公認された。 慶長3年(1598年)、上杉景勝 は越後・佐渡2国等から蒲生氏郷 の旧領、即ち会津・置賜・信夫・伊達・安達などに移封され、加えて庄内の支配も引き続き認められ計120万石を領した。これにより、最上義光 は仇敵上杉氏に南と西から挟まれた。逆に上杉景勝 にとっても最上氏に新領地と庄内地方を遮断され、ここに両氏の激突は避けられない状況になった。 発端 豊臣秀吉の死後、慶長5年(1600年)6月に会津攻めのため出陣していた徳川家康 が、下野小山において石田三成 の挙兵を知って反転西上する。家康は南部利直・秋田実季・戸沢政盛・本堂氏・六郷氏・赤尾津氏・滝沢氏などを山形に集結させ、最上義光 を主将として米沢口から会津に侵入するようにしていたという。しかし、家康は転進したため、奥羽諸軍は自領に引き上げてしまう。これにより上杉と対決する姿勢を示すのは義光だけとなり、家康の脅威が去った上杉景勝 は、義光を攻略しようとした。最上氏を滅ぼせば上杉氏にとっては後顧の憂いが無くなり、家康と決戦に挑めるからである。逆に家康の反転と、伊達氏と上杉氏の一時的な和睦により山形に残された形になった義光は窮状に陥り、上杉方に嫡子を人質として送る等の条件で山形へ出兵しないように要請している。しかし義光が秋田実季(東軍)と結び上杉領を挟みうちにする形跡を知ったため上杉氏は激怒した。 上杉軍出陣 慶長5年9月8日、上杉軍は米沢と庄内の二方面から、最上領向けて侵攻を開始した。上杉勢の大将は景勝の重臣直江兼続 で、総兵力は2万5000人にも及んだ。米沢を出た直江軍は萩野中山口、小滝口、大瀬口、栃窪口、掛入石仲中山口に分かれそれぞれ進軍した。兼続は萩野中山口を進んだ。それに対して最上軍の総兵力はおよそ7000人にすぎず、しかも居城の山形城をはじめ、畑谷城や長谷堂城など多くの属城にも兵力を分散していたため、山形城には4000人ほどの兵力しかなかった。(ただし両軍の正確の兵数は不明。後に記述) 直江兼続 率いる上杉軍は、9月12日に畑谷城を包囲する。この城は、最上軍の最前線基地であるが、城将は江口光清以下500人ほどに過ぎなかった。義光は光清に撤退を命令していたが、江口以下、城兵は命令を無視し玉砕を覚悟で必死に抵抗する。この時の事を、『最上義光 物語』では、 「東西南北に入違ひもみ合。死を一挙にあらそひ。おめき叫て戦ひければ、さしも勇み進んたる寄手も。此いきほひに難叶。持楯かい楯打捨て。一度にとつと引たりける」 と、城兵側に激しい抵抗をつぶさに描いている。しかしやはり兵力の差はいかんともし難く、畑谷城はその日のうちに落城、江口は敵軍の中に斬り込んで一戦した後、自害して果てた。しかし江口の激しい抵抗は、上杉軍にも1000人近い死傷者を出させた。 9月17日、直江軍とは別に掛入石仲中山口を進軍してきた篠井康信、横田旨俊ら4000人が上山城攻めに取りかかった。守将は最上氏の家臣・里見民部であり城兵はわずか500ほどにしか過ぎなかったが、里見民部は善戦した。民部は城に籠もっていても芸が無いとばかりに、城門を開けて打って出た。上杉軍は一気に城兵を殲滅するため反撃に出た。城門付近で激戦が繰り広げられたが、上杉軍の背後から、最上軍が襲いかかった。民部は、あらかじめ少ない兵を分散し、草刈志摩という人物に別動隊を率いさせて城の外に出して待ち伏せをさせていたためである。背後を襲われた上杉軍はたちまち大混乱に陥り、最上勢はこの隙に上杉勢を激しく攻める。上杉方は木村親盛が坂弥兵衛なる者に討ち取られた他、椎名弥七郎をはじめとする将兵の多くが討たれた。里見は上杉軍400人余りの首を義光に送ったとされる。この上山城攻めの苦戦で、掛入石仲中山口からの上杉軍は同時期行われていた長谷堂城の戦いで戦闘中の直江本隊とは最後まで合流することが出来なかった。 長谷堂城の戦い 各地で最上勢は地の利を生かして善戦したが、兵力の差は大きい。さらに上杉景勝 に呼応して、最上義光 と対立していた小野寺義道も、最上氏の属城である湯沢城を包囲攻撃し始めた。しかし、この戦いにおいても城将の楯岡満茂が善戦し、小野寺軍の侵攻は大いに遅滞した。 一方、直江兼続 は畑谷城を落としたあと、長谷堂城近くの菅沢山に陣を取る。そして、長谷堂城を包囲した。長谷堂城は山形盆地の西南端にある須川の支流・本沢川の西側に位置し、山形城からは南西約8キロのあたりに位置する、山形城防衛において最も重要な支城であった。つまり、長谷堂城が落ちれば、山形城は裸城同然となるのである。 この時、長谷堂城は最上氏の重臣・志村光安以下1000名が守備していた。攻め手は直江兼続 率いる上杉軍1万8000人。通常攻城戦に必要な兵数は城方の3倍と云われているが、その点上杉軍は十分過ぎるほどの兵力を持って攻城戦にあたった。まず、兼続は大軍を背景に力攻めを敢行。しかし志村は寡兵ながらも巧みに防戦し、9月16日には200名の決死隊を率い上杉側の春日元忠軍に夜襲を仕掛ける。これにより上杉勢は同士討ちを起こすほどの大混乱に陥り、志村は兼続のいる本陣近くまで攻め寄って、250人ほどの首を討ち取る戦果を挙げた。 9月17日、兼続は武将の春日元忠に命じ、さらに城を激しく攻め立てた。しかし、長谷堂城の周りは深田になっており、人も馬も足をとられ迅速に行動ができない。そこへ最上軍が一斉射撃を浴びせて上杉軍を散々に翻弄した。業を煮やした兼続は、長谷堂城付近で刈田狼藉を行い城兵を挑発するが、志村は挑発には乗らず、逆に兼続に対し「笑止」という返礼を送ったとされる。 9月21日には、最上義光 の甥でやはり東軍に与していた伊達政宗は、援軍として留守政景を将とした約3000の軍勢を遣わし、伊達勢は白石から笹谷峠を越えて山形城の東方に布陣した。一説には山形城が落城するまで傍観し、疲弊した上杉勢を討ち、漁夫の利を得ようとしていたともいう。しかしいずれにしても、伊達の援軍をあわせても、上杉軍の兵力におけるの優位に変わりはなかった。一方、長谷堂城を守る志村光安はなおも善戦し、9月29日には上杉軍の武将・上泉泰綱を討ち取るという戦果を挙げた。 撤退戦 そしてこの29日に、関ヶ原の本戦において石田三成 率いる西軍が、徳川家康 率いる東軍に大敗を喫したという情報が、直江兼続 のもとにもたらされた。敗報を知った兼続は自害しようとしたものの前田利益 に諫められ撤退を決断したとされる。これにより攻守は逆転し、撤退する上杉軍を、最上と伊達連合軍が追撃した。この戦では、陣頭に立つ最上義光 の兜に銃弾が当たるなど大激戦となり両軍多くの死傷者を出した。しかし前田利益 や水原親憲などの善戦もあり、兼続は鉄砲隊で最上軍を防ぎながらその追撃を振り切り米沢城に帰還した。『最上義光 記』には「直江は近習ばかりにて少も崩れず、向の岸まで足早やに引きけるが、取って返し。追い乱れたる味方の勢を右往左往にまくり立て、数多討ち取り、この勢に辟易してそれらを追い引き返しければ、直江も虎口を逃れ、敗軍集めて、心静かに帰陣しけり」とある。 この撤退戦は後世まで語り草になった。最上義光 は兼続を「上方にて敗軍の由告げ来りけれども、直江少しも臆せず、心静かに陣払いの様子、(中略)誠に景虎武勇の強き事にて、残りたりと、斜ならず感じ給う」と評し、家康も兼続が駿府を訪れた時「あっぱれ汝は聞き及びしよりいや増しの武功の物」とおおいに賞賛したという。 また、最上勢は全戦線で反攻に転じ、庄内地方を上杉氏から奪還した。 戦後 この戦いは、「奥羽における東西合戦」と言える。最上軍は少ないながらも善戦したことにより、戦後家康はその功績を賞賛し、義光が切り取った庄内地方と由利郡の支配を公認し、出羽山形57万石を与えている。 伊達政宗も自力で旧領の回復を目指して南下、上杉領の白石城を落とし、さらに伊達・信夫に進攻した。しかし、南部領で一揆の扇動した事が露見し家康の不信を招き、いわゆる「百万石のお墨付き」は反故にされ、自力で落とした白石城をそのまま追認されたに過ぎなかった。上杉景勝 は庄内、会津などを没収され、米沢30万石のみを許された。 慶長出羽合戦 における兵数について 長谷堂城の戦いについては当時の良質の史料がほとんど残されておらず兵数も後世の軍記などに頼ることになるが、これらは誇張された部分も多くそれぞれに数の開きがあって確実な兵数は不明といわれる。例えば、上杉軍撤退の時の双方の死傷者は最上側では「味方の戦死者623人敵の戦死者1580人」とするが上杉側は「敵の戦死者2100余り」としている。

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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
Text is available under GNU Free Documentation License.
[慶長出羽合戦]の改定履歴
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コシャマイン 安芸武田氏 安国寺恵瓊 安達泰盛安東愛季 安東氏 安東政季 安藤守就 安藤盛季 安日彦 安倍貞任 伊達行朝依田信蕃一色義貫 一色氏稲葉一鉄 宇喜多直家 越前朝倉氏 遠山景任 奥平貞昌 下間頼照 河尻秀隆 河田長親 河内源氏岩成友通 吉良氏吉良満氏金森長近 九戸政実穴山信君 原田直政 源義家源義光源義康源義国源義朝源光行源頼義源頼朝戸田康光 後村上天皇 後醍醐天皇光明天皇甲斐源氏荒木村重 高山右近 高師直今川義元 今川氏今川氏真
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【2012/02/14 05:08 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0)
宗像氏
宗像氏(むなかたし)とは、筑前国の古族である。
出雲神の嫡裔、大国主命の神裔として伝えられ、天照大神と素戔鳴尊の誓約によって生まれた宗像三神を祭神とする全国宗像神社の総本社・宗像大社の大宮司家を中核とする。宗像氏は、正三位中納言清氏親王を祖とするが、伝承の域を出ない。914年までは、胸形氏、宗形氏、胸肩氏等と表記された。また、平安時代末期辺りから武士化し、戦国大名としても活躍した。戦国時代に宗像氏貞をもって大宮司家が断絶した。また、「むなかた」の由来は、沼沢地に接する集落を意味する。
歴史

古代は、海洋豪族として、宗像地方と響灘西部から玄界灘全域に至る膨大な海域を支配した。
仲哀天皇の頃、神功皇后が三韓征伐の直前に来宗した際に、宗像氏が宗像大神に神助を賜う。
雄略天皇が新羅に親征しようとしたが、宗像三女神のお告げにより中止する。
645年、大化の改新によって、国郡制が敷かれ、宗像氏は宗像神郡の大領と宗像大社の神主を兼任し、神郡の行政を司った。また、遠賀郡などの郡司も兼ねる。
654年、宗像徳善(胸形君徳善)の女で、天武天皇の妃の尼子娘が高市皇子を出産する。
天武天皇の代に、宗像朝臣を賜う。
690年(持統4年)、高市皇子が太政大臣になる。
767年、宗像大領で朝臣の宗像深津(宗形深津)の夫人に竹生王という皇族が降家した。
788年、宗像氏の中から潔清廉貞での祭事者を選んで神主とし、任期を6年と定めた。
800年、宗像大領が宗像神主を兼任することが禁止された。
914年、宇多天皇の御子源清氏に宗像の姓を賜り、宗像の地に配された。この頃から、宗像氏が大宰府の高官に任命されるようになった。
979年(天元2年)、太政官の命により、大宮司職が設けられる。
宗像氏は、自分の荘園を守る為に、京都の八条院と領主・本家の関係になる。
平安時代末期、大宰帥に宗像氏の名が見られる。
1185年、宗像氏実が、博多の貿易商・王氏の娘と、宗像氏忠は北宋商人・張氏の娘と2代に渡って中国人と縁組する。
1281年、弘安の役が起こる。宗像長氏は元(蒙古)の侵略から防戦し、鎌倉幕府から肥前国神埼郡神埼荘を賜る。
1330年、倭寇を指揮する。
1334年、宗像氏が帆柱山城を攻撃する。
1335年、北条時直の遺児が越後左近将監と謀り、佐加利山城で蜂起する。宗像氏範が鎮圧のために吉田頼景らと佐加利山城を攻撃する。
1336年、宗像氏範が入宗した足利尊氏を助け、多々良浜の戦いなどで奮戦する。その結果、楠橋荘(北九州市八幡西区)を与えられる。
1344年、壱岐の石田郷の地頭を、後に壱岐の守護を兼任した。
1375年、宗像氏経が、足利義満の命で菊池氏の領地である肥後国を攻めて、八代城を包囲する。その留守に宗像を攻めた少弐忠資を降伏させた。
関連項目

許斐氏
宗像大宮司の一覧
宗像大社神主の一覧
! むなかたし
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
Text is available under GNU Free Documentation License.

戦国武将一覧

?■蒲生氏郷
前田利長
池田恒興
堀秀政
大友宗麟
鈴木重意
島津義久
十河存保
仙石秀久
真田昌幸
鈴木重則
猪俣邦憲
細川忠興
古田織部
浅野長政
前田玄以
長束正家
増田長盛
福島正則
加藤清正
脇坂安治
平野長泰
糟屋武則
片桐且元
石田三成
島津貴久
島津忠良
本多正信
大久保長安
奥平貞能
本多忠勝
服部半蔵
板部岡江雪斎
大久保忠世
鳥居元忠
真田幸村
大谷吉継
後藤基次
毛利勝永
大野治長
明石全登
豊臣秀頼
筒井順慶
筒井順昭
最上義光
最上義守
長宗我部国親
長宗我部信親
九鬼嘉隆
村上武吉
【1970/01/01 09:00 】 | 大名 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
長野工藤氏
長野工藤氏(ながのくどうし、単に長野氏とも)は、伊勢国に勢力を持った有力国人である。元来は工藤氏と称していたため、他の長野氏と区別するために、「長野工藤氏」と呼称されている。
藤原南家 乙麿(乙麻呂)流の一族で、曽我兄弟に殺された工藤祐経の三男・工藤祐長が、伊勢平氏残党の討伐のため、伊勢国長野の地頭職となって安濃・奄芸二郡を給わり、その子・工藤祐政が長野に来住して長野氏を名乗ったのが、長野氏の起源である。
鎌倉時代から伊勢国中部の有力国人として君臨したが、南北朝時代に入ると、南朝方国司の北畠氏が伊勢に進出する。このため、長野氏は北朝方に与して伊勢の覇権を争った。ちなみに、この時代に書かれた『梅松論』にも「長野工藤三郎左衛門尉」という名乗りの人物が登場している。
南北朝時代が終焉した後も北畠氏との抗争は続き、1467年からの応仁の乱でも長野氏は西軍(山名宗全側)、北畠氏は東軍(細川勝元側)に与してそれぞれが争った。
戦国時代に入っても抗争が続いたが、やがて北畠氏に英主と言われる北畠晴具が現れ勢力を拡大し、また、近江六角氏の北伊勢に対する圧力も強まると、長野氏の第15代当主・長野藤定は次第に力を失っていき、1558年、藤定は晴具の攻勢の前に遂に屈服し、晴具の嫡男・北畠具教の次男・長野具藤(長野御所)を養嗣子として迎えた上で、長野氏第16代の家督を継がせた。これにより両家は講和し、長野氏は北畠氏の傘下となったのである。
晴具の没後まもなく、尾張の織田信長が伊勢に侵攻してくる。晴具の後を継いだ具教と、長野氏の当主である長野具藤は織田軍に抵抗したが、信長の攻勢の前に敗れ、北畠氏は信長の次男・織田信雄を、長野氏は信長の弟・織田信包を養嗣子として迎えた上で家督を譲ることを余儀なくされ、北畠・長野両家は今度は織田氏によって傘下に置かれたのである。
そして1576年11月、信長の命令で北畠具教が暗殺された後、長野具藤も田丸城で北畠一族もろとも殺される。信包も後に織田姓に復し、国人領主としての長野氏は滅亡した。
歴代当主

長野祐政【一】
長野祐藤【二】
長野祐房【三】
長野藤房【四】
長野豊藤【五】
長野経藤【六】
長野義藤【七】
長野光忠【八】
長野宗忠【九】
長野政藤【十】
長野藤継【十一】
長野藤直【十二】
長野通藤【十三】
長野稙藤【十四】
長野藤定【十五】
長野具藤【十六】
織田信包(長野信包)【十七】
系図

工藤 祐長 ┣━━━━┳━━━┳━━━━━━┳━━━━━━┳━━━━━━┳━━━━━━━━━━━┓ 祐政 有坂祐光 祐能 坂本祐氏 祐忠 祐朝 祐広 ┣━━┳━━┓  ┣━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┓  ┣━━┳━━┳━━┓  ┣━━┳━━┳━━┓ 祐藤 祐泰 祐村 祐政 祐宗 祐重 祐兼 祐賀 能氏 祐貞 祐宗 祐賢 祐継 祐盛 祐藤 祐泰 祐村 祐政 ┣━━━━┳━━━┳━━┓  ┣━━┳━━┳━━┓                 ┃ 祐房 雲林院祐高 祐冬 高景 祐景 泰祐 祐光 ◇                 友房     ┃      ┃ 藤房  分部氏へ                                     ┣━━┳━━┓ 豊藤 祐茂 祐経            ┣━━━━━━━━━━━┳━━━━━┓ 経藤 分部祐成 細野藤信   ┣━━┳━━━┓          ┃ 義藤 藤忠 川北藤照 細野氏へ   ┃ 光忠 ┣━━┓ 宗忠 教藤    ┣━━┳━━┳━━┓ 藤直 藤継 祐藤 政藤                                   ┃        通藤            ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━┓           稙藤 細野藤光    ┣━━┳━━┳━━━━┓      ┣━━━━┳━━━━┓    藤高 藤定 藤光 雲林院植清 細野藤敦 分部光嘉 川北藤元 ┣━━━━┳━━━┓           北畠具藤 織田信包 藤勝
一族・家臣団

分部氏
分部光嘉
分部光信
細野氏
細野藤光
細野藤敦
雲林院氏
川北氏
なかのくとうし *
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
Text is available under GNU Free Documentation License.
【1970/01/01 09:00 】 | 大名 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
高梨氏
高梨氏(たかなしし)は、信濃国北部(高井郡・水内郡)に割拠した武家の氏族。全盛期の本拠地は、現在の長野県中野市。
平安末期から源平合戦

高梨氏は、同じ北信濃の名族清和源氏井上氏流を名乗り、源家季の息子高梨盛光の末裔であると称している。しかし系図には疑うべき余地も多く、実際には源平合戦の際は井上一族では無く北安曇の仁科氏らと行動を共にしていたので、当時の慣習から見て別の一族であった可能性がある。しかし、高梨氏は仁科氏と同じく中原兼遠の婿になっていたので、この婚姻関係によって執るべき軍事行動が変化(男系親族井上氏に従わず、外戚中原氏へ加担)したということも考えられる。
高梨高信・高梨忠直らは源義仲傘下として越後から南下した城資茂率いる平家方を破り、その後も源義仲に最後まで従ったと思われ、高梨忠直は京都の六条河原で刑死した記録が残されている。また、建久元年(1190年)頼朝が上洛した際の御家人の中に高梨次郎の名が見え、鎌倉時代も御家人として存続していた事が伺われる。その後は保科氏らと婚姻関係を結びつつ北方へ領土を拡大していった。
南北朝時代

続く南北朝時代には埴科郡に割拠する有力豪族村上氏と共に北朝方に属し、正平6年/観応2年(1351年)6月に高梨経頼は小笠原為経・小笠原光宗らと直義党の諏訪直頼の代官祢津宗貞と野辺原(須坂市野辺)で戦い、8月には富部河原、善光寺、米子城(須坂市米子)で戦った。また守護の斯波義種に反抗して元中4年/嘉慶元年(1387年)善光寺に村上頼国、小笠原清順、長沼太郎らと挙兵し5月に平柴(長野市安茂里)の守護所を攻めて漆田原(長野市中御所)で戦い、8月には守護代の二宮氏泰が篭城する横山城を攻め落とし、続いて生仁城(千曲市雨宮)も攻めた。北信濃の南朝方香坂心覚(根津一族と思われる香坂氏6代目)との抗争にも高梨五郎・高梨時綱らの名前が出てくる。
室町時代中期

更に応永7年(1400年)に信濃守護職小笠原長秀との間で行われた大塔合戦では、高梨氏や井上一族など北信濃衆は500騎を動員しており、この数は信濃国人衆の筆頭(信濃惣大将)である村上氏と同数で、東信濃の名族海野氏の300騎を上回る。応永10年](1403年)に細川慈忠が守護代として入国した際には村上氏や大井氏、井上氏らが従わず段の原や生仁城で戦ったものの敗走し、翌年12月には高梨左馬助朝秀とも合戦となった。このように南北朝時代に善光寺平北部地域一帯から越後の一部にまで及ぶ勢力拡大に成功した様子が伺われる。室町時代には、高梨惣領家と山田高梨・中村高梨・江部高梨を併せて高梨四家と呼ばれていたと記されている(「上高井歴史」より)。
地理的に近い越後にも所領があったことから越後の勢力の影響を高梨氏も受けるようになる。寛正4年(1463年)12月に、信濃守護職を得た越後守護上杉房定の一族上杉右馬頭が高井郡高橋(中野市西条)に攻め入った際には、高梨政高がこれを討取ってしまっている。高梨氏は村上氏と共に、北信濃の一大勢力として認識されるようになる。
戦国時代以降

高梨政盛の代に、越後守護代の長尾氏と関係を強めるため、長尾能景に娘(政盛と能景は同年代であるため、政高の娘である可能性が高い)を嫁がせるが、その娘が産んだ長尾為景(上杉謙信の父)が越後守護代となり、室町末期には越後で守護上杉家と長尾家の争いが起きると、高梨氏もそれに巻き込まれることになった。
永正4年(1507年)、為景が越後守護上杉房能を殺害する際に支援している。また房能の兄で関東管領上杉顕定が為景を一旦は放逐するが、永正7年(1510年)の長森原の戦いに為景方の援軍として出陣して顕定を敗死させている。政盛は永正10年(1513年)頃までに善光寺平北部の中野郷を奪取して本拠地と定め、高梨氏の全盛期を築いたとされている。しかしその年のうちに政盛が死去、越後では為景と新守護上杉定実の争いが起き、近隣の井上一族を始め北信濃の国人衆が上杉方に付き、唯一の長尾方として孤立していく事となる。更に善光寺平を手中に収めようとする村上氏との対立もあり、以後高梨氏は弱体化していった。
それでも政盛の孫の高梨政頼の頃まで独立性を保ってきたが、村上氏を撃破した甲斐国の武田晴信の侵攻を受け、弘治年間(1555 - 1558)に本拠地中野郷から信越国境に近い飯山郷まで後退した。その後、長尾景虎(上杉謙信)の支援を受けて一時的に所領を取り返したが、その後武田と長尾(上杉)の対立(川中島の戦い)の中で他の北信濃国人衆と共に上杉家の家臣化が進んでいった。
武田氏の滅亡後、北信濃を任された森長可が本能寺の変により撤退、代わって上杉景勝が進出するのに伴って高梨氏は旧領に復帰することができた。その後上杉家は、会津・米沢藩と転封を重ねるが、政頼の子・高梨頼親もこれに従っている。彼の子孫は米沢藩士として江戸時代に代々続いた。
この系統の他に、尾張や丹後または相模国などに移住した高梨氏もあったと言う。現在の高梨家の末裔として認知されている一族は尾張高梨家出身である。
歴代の人物

高梨盛光
高梨忠光
高梨高信
高梨忠直
高梨朝定
高梨政高
高梨政盛
高梨澄頼
高梨清秀
高梨政頼
高梨頼治
高梨頼親
高梨秀政
高梨頼清
関連項目

高梨氏館
於フ子
関山慧玄
たかなし たかなしし たかなしし *
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
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江馬氏
江馬氏(えまし)は、桓武平氏の一族。平経盛の遺児輝経が北条氏に仕えたのに始まるという。
概略

戦国時代に、江馬時経が登場し江馬氏は戦国大名として名乗りを上げる。時経は飛騨の北部に勢力を築き、国司姉小路家や三木氏(のち姉小路氏)とたびたび争った。時経の子の江馬時盛の代においては、飛騨は武田信玄の領地信濃国や、上杉謙信の領地越後国と接していて、時盛は武田氏に臣従する道を選び姉小路良頼との抗争を有利に進めた。だが、時盛が子の江馬輝盛と対立し暗殺されたのちは江馬氏は上杉氏に臣従するという道を選んだ。その後は織田氏の力を背景にした姉小路自綱の力が強大化し、江馬氏は衰退していく。1582年に本能寺の変が起きると、織田氏寄りだった姉小路氏と争ったものの、八日町の戦いに負け、輝盛は戦死し、戦国大名江馬氏は、事実上滅亡した。輝盛の後継とみられる江馬時政は金森氏を頼ったものの、のちに反乱を起こし殺害され、江馬氏は滅亡した。
系図

江馬時経  ┣━━━━━━┓ 時盛    麻生野直盛  ┣━━┓   ┃ 輝盛 信盛 麻生野慶盛  ┃      ┃ 時政    麻生野家頼
えまし
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