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【2026/10/12 11:39 】 |
十河氏
十河氏(そごうし)は日本の氏族。
讃岐国の土豪であり、讃岐に下った神櫛王の流れを汲むと称する植田氏の一族である。神内氏、三谷氏と共に植田党の一角を形成した。
南北朝時代以降、四国においては守護大名細川氏による在地国人の被官化が進行し、十河氏ら植田党もその傘下となる。
戦国時代には細川氏の内乱(永正の錯乱)に乗じて三好氏と結び、讃岐守護代であった香西氏などと抗争しつつ勢力を拡大。後に甲斐源氏の流れを汲む阿波小笠原氏一族の三好長慶の弟(十河一存)が十河氏を継ぐことにより三好一門となる。一存は勇猛で「鬼十河」の異名を取ったが、落馬により1561年に急死。一存の兄三好義賢の子(十河存保)がその跡を継ぐ。
存保は讃岐を支配していたが、義賢の嫡男である三好長治が反乱により自刃し、阿波が混乱すると、三好氏の家臣の要請により阿波も支配するようになる。存保は上洛を果たした織田信長に降り勢力を保持しようとしたが、四国統一を目指す長宗我部元親の侵攻を受けるようになる。従属先の信長が1582年に本能寺の変で急死、さらに中富川の戦いなどで元親に連敗した存保は阿波勝瑞城や讃岐十河城を失う。秀吉の援軍を引田の戦いで破った長宗我部氏の勢いはとどまることを知らず、窮地に追い込まれた存保だが、柴田勝家を破り四国征伐に本格的に取り組みはじめた羽柴秀吉の助力を得て抗戦。秀吉は元親を降伏させる。秀吉と共に戦った存保は所領を安堵された。
その後秀吉の九州征伐軍に参加。1586年に豊後国の戸次川で島津家久と交戦したが(戸次川の戦い)、軍目付の仙石秀久の失策により存保は討ち死に。遺児千松丸も生駒親正の保護下において1589年に謎の急死を遂げた。
最後に残ったもう一人の遺児存英も大坂夏の陣にて戦死し、十河氏は滅亡した。
四国の覇権を巡って争った十河氏と長宗我部氏は、秀吉に臣従した後の戸次川の戦いで十河存保と長宗我部元親の長男信親が戦死、30年ほど後の大坂夏の陣でも存保の子存英と元親の四男盛親が秀吉の子秀頼に殉じるという繰り返された歴史に皮肉が感じられる。
外部リンク

武家家伝_十河氏
*そこう そこう *
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
Text is available under GNU Free Documentation License.

戦国合戦一覧

?■二俣城の戦い
■三方ヶ原の戦い
■木崎原の戦い
■槇島城の戦い
■一乗谷城の戦い
■越前一向一揆
■高天神城の戦い
■長篠の戦い
■四万十川の戦い
■七尾城の戦い
■第一次木津川口の戦い
■第二次木津川口の戦い
■上月城の戦い
■三木合戦
■御館の乱
■武田征伐
■本能寺の変
■山崎の戦い
■中富川の戦い
■賤ヶ岳の戦い
■小牧・長久手の戦い
■紀州征伐
■四国征伐
■上田合戦
■河原山城の戦い
■戸次川の戦い
■肥後国人一揆
■大崎合戦
■摺上原の戦い
■小田原の役
■文禄・慶長の役
■閑山島海戦
■晋州城攻防戦
■碧蹄館の戦い
■庄内の乱
■関ヶ原の戦い
■会津征伐
■伏見城の戦い
■木曽川・合渡川の戦い
■慶長出羽合戦
■大津城の戦い
■松川の戦い
■大坂の役
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【1970/01/01 09:00 】 | 大名 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
望月氏
望月氏(もちづきうじ)とは、信濃国佐久郡望月地方を本貫地とした武家の氏族。
出自

滋野氏の流れを汲み、滋野為道(為通)の子・滋野則重(則広)、あるいは則広の孫・滋野広重に始まるとさる。信濃御牧の牧監とも伝えられる滋野氏の中で、信濃十六牧の筆頭「望月の牧」を継承した一族と考えられる。滋野氏を出自とする諸族の中でも、海野氏、禰津氏と並び、滋野三家と呼ばれる。
概要

鎌倉時代

望月氏の全盛期は、治承4年(1180年)の木曽義仲挙兵に子の望月重隆とともに従軍した望月氏(もちづきうじ)とは、信濃国佐久郡望月地方を本貫地とした武家の氏族。
出自

滋野氏の流れを汲み、滋野為道(為通)の子・滋野則重(則広)、あるいは則広の孫・滋野広重に始まるとさる。信濃御牧の牧監とも伝えられる滋野氏の中で、信濃十六牧の筆頭「望月の牧」を継承した一族と考えられる。滋野氏を出自とする諸族の中でも、海野氏、禰津氏と並び、滋野三家と呼ばれる。
概要

鎌倉時代

望月氏の全盛期は、治承4年(1180年)の木曽義仲挙兵に子の望月重隆とともに従軍した望月国親の時代と考えられ、当時の望月氏は佐久郡から隣接する小県郡にも勢力を伸ばしていたとされる。義仲が越後の平家方を迎撃した寿永元年(1182年)9月の横田河原の戦いでは、木曾衆と甲斐衆(これは上州衆の誤記と思われる)と共に佐久衆が中核となったとする記録があり、この佐久衆の中心が古来より日本一の牧とも言われる「望月の牧」で育んだ強力な騎馬軍団を擁する望月氏であったと想定されている。また、義仲の四天王といわれた根井光親も望月氏傍流である。
義仲の没落後は鎌倉幕府の御家人となり、望月重隆は鶴岡八幡宮弓初めの射手に選ばれるほどの弓の名手として知られた。文治4年(1188年)、奥州藤原征伐に従い、建久5年(1194年)の安田義定・義資父子の謀反を、幕命により追討している。さらに建保元年(1213年)の和田合戦に際しても和田軍と戦い、重隆の孫・望月盛重は和田義氏の子・次郎太郎義光を討ち、信濃国和田を恩賞として賜っている。
室町時代

鎌倉滅亡後の中先代の乱では、望月重信が諏訪氏や海野氏・根津氏と共に北条高時の遺児北条時行を擁して挙兵、足利側の信濃守護小笠原貞宗の攻撃を受け本拠地の望月城を喪うが、間もなく同城を回復し勢力を維持した。続く南北朝の争いでは一族の多くが南朝に与して戦い、後醍醐天皇の皇子で「信濃宮」と呼ばれた宗良親王を30年に渡って庇護した伊那郡の豪族香坂高宗も、望月氏の一族とされる。
戦国時代

戦国期に入り、望月氏も望月城(現:佐久市 旧:北佐久郡望月町)を拠点に活動をするが、隣国甲斐国の武田氏や、越後国の長尾氏(上杉氏)などの度重なる侵攻により衰退化し、天文12年(1543年)9月に当主・望月昌頼は武田に攻められ落ち延びた。一族の望月信雅は実弟の望月新六と共に武田に抵抗するが、同じく滋野氏の流れを汲む真田幸隆の仲介を得て武田氏に服従し、望月氏を継ぐことになる(信雅の名乗りは、臣従後に晴信の一字「信」を与えられたことによる)。更に望月盛昌の娘(昌頼の兄妹)を、武田信玄の弟・典厩信繁の嫁とし、信繁の子(望月信頼、望月信永)を信雅の養子とするなどして、名族望月氏を武田一門に組み込んでいった。
信雅引退(印月斎一峰と称す)の後は、望月信永が家督を継ぎ、武田氏の「御親類衆」として60騎を率いて本陣旗本として活躍する。しかし、その信永は天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて討ち死する。その後、しばらくは信永の実兄・武田信豊の管理下に置かれ、後に印月斎が当主に復帰する異例の状態となる。
天目山の戦いで武田家が織田家に敗れた際、多くの武将は織田信長によって誅殺されたが、望月権兵衛など難を免れた者達は、現在の静岡市北西部から山梨県南部町や身延町、早川町あたりの県境の山間に身を隠し移り住んだ。現在でも子孫の多くがこの地域に住んでおり、九曜紋の家紋を持つ全国の望月の姓の大半の方がこの地域出身か、祖先がこの地域の出身である。
武田氏滅亡後、徳川家康配下の依田信蕃に従い徳川氏の傘下に入ったとされる。
甲賀望月氏(近江国)

望月氏が支配した「望月の牧」を始めとする御牧は、古く奈良時代から産する馬を朝廷に送られており、これらの産駒は途中の近江国甲賀付近で休養や調教(飼養牧)を行うことになっていた。その繋がりから望月氏と甲賀の地は古より関係があり、平安時代には平将門の乱で武功があったとされる望月三郎兼家(諏訪氏の出自との説もあり)が恩賞として近江国甲賀郡を賜っている。
戦国時代にはその末裔・望月出雲守が望月城(現:甲賀市 旧:甲賀郡甲南町)を築城するなどの記録が残され、信濃望月氏の支流が甲賀の地で独自に武士団へと発展していった。また一族の女忍者望月千代女(もちづきちよめ)が、信濃の望月氏当主・望月盛時に嫁入りし、武田信玄の手下として活躍するなど、交流は長きにわたり続いたと考えられる。
甲賀望月氏は、後に甲賀忍者と呼ばれる甲賀五十三家の筆頭格に数えられ、望月出雲守屋敷跡は現在甲賀流忍術屋敷となっている。
* *
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
Text is available under GNU Free Documentation License.

戦国武将一覧

?■和田惟政
■蠣崎季繁
■蠣崎季廣
■蠣崎義廣
■蠣崎氏
■神戸具盛
■後藤賢豊
■遠藤直経
■赤尾清綱
■海北綱親
■磯野員昌
■藤堂高虎
■不破光治
■上杉定実
■上杉憲政
■北条氏康
■佐野昌綱
■長尾為景
■伊達稙宗
■伊達実元
■黒田秀忠
■長尾政景
■村上義清
■高梨政頼
■北条高広
■大舘晴光
■神保長職
■椎名康胤
■長野業正
■小山秀綱
■那須資胤
■佐竹義重
■太田資正
■三田綱秀
■成田長泰
■武田信繁
■蘆名盛氏
■本庄繁長
■大宝寺義増
■本願寺顕如
■伊達政宗
■大内義隆
■毛利隆元
■小早川隆景
■赤松則房
■黒田孝高
■山名豊国
■吉川経家
■吉川元春
■清水宗治
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江馬氏
江馬氏(えまし)は、桓武平氏の一族。平経盛の遺児輝経が北条氏に仕えたのに始まるという。
概略

戦国時代に、江馬時経が登場し江馬氏は戦国大名として名乗りを上げる。時経は飛騨の北部に勢力を築き、国司姉小路家や三木氏(のち姉小路氏)とたびたび争った。時経の子の江馬時盛の代においては、飛騨は武田信玄の領地信濃国や、上杉謙信の領地越後国と接していて、時盛は武田氏に臣従する道を選び姉小路良頼との抗争を有利に進めた。だが、時盛が子の江馬輝盛と対立し暗殺されたのちは江馬氏は上杉氏に臣従するという道を選んだ。その後は織田氏の力を背景にした姉小路自綱の力が強大化し、江馬氏は衰退していく。1582年に本能寺の変が起きると、織田氏寄りだった姉小路氏と争ったものの、八日町の戦いに負け、輝盛は戦死し、戦国大名江馬氏は、事実上滅亡した。輝盛の後継とみられる江馬時政は金森氏を頼ったものの、のちに反乱を起こし殺害され、江馬氏は滅亡した。
系図

江馬時経  ┣━━━━━━┓ 時盛    麻生野直盛  ┣━━┓   ┃ 輝盛 信盛 麻生野慶盛  ┃      ┃ 時政    麻生野家頼
えまし
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
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戦国武将一覧

?■今川貞世
■佐久間信栄
■佐久間信盛
■佐久間盛重
■佐竹氏
■佐々成政
■斎藤義龍
■斎藤氏
■斎藤道三
■斎藤龍興
■細川氏
■細川政元
■細川藤孝
■坂井政尚
■雑賀孫一
■三好義継
■三好政康
■三好長慶
■三好長逸
■山中鹿之介
■斯波義銀
■斯波義統
■斯波氏
■氏家直元
■柴田勝家
■若狭武田氏
■秋山信友
■秋田氏
■渋川氏
■小笠原氏
■小笠原信嶺
■松永久秀
■松平信康
■上杉景虎
■上杉景勝
■上杉謙信
■上杉重房
■上杉清子
■上杉朝定
■上杉頼重
■織田信賢
■織田信光
■織田信孝
■織田信行
■織田信秀
■織田信清
■織田信忠
■織田信長
■織田信友
■織田信雄
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高梨氏
高梨氏(たかなしし)は、信濃国北部(高井郡・水内郡)に割拠した武家の氏族。全盛期の本拠地は、現在の長野県中野市。
平安末期から源平合戦

高梨氏は、同じ北信濃の名族清和源氏井上氏流を名乗り、源家季の息子高梨盛光の末裔であると称している。しかし系図には疑うべき余地も多く、実際には源平合戦の際は井上一族では無く北安曇の仁科氏らと行動を共にしていたので、当時の慣習から見て別の一族であった可能性がある。しかし、高梨氏は仁科氏と同じく中原兼遠の婿になっていたので、この婚姻関係によって執るべき軍事行動が変化(男系親族井上氏に従わず、外戚中原氏へ加担)したということも考えられる。
高梨高信・高梨忠直らは源義仲傘下として越後から南下した城資茂率いる平家方を破り、その後も源義仲に最後まで従ったと思われ、高梨忠直は京都の六条河原で刑死した記録が残されている。また、建久元年(1190年)頼朝が上洛した際の御家人の中に高梨次郎の名が見え、鎌倉時代も御家人として存続していた事が伺われる。その後は保科氏らと婚姻関係を結びつつ北方へ領土を拡大していった。
南北朝時代

続く南北朝時代には埴科郡に割拠する有力豪族村上氏と共に北朝方に属し、正平6年/観応2年(1351年)6月に高梨経頼は小笠原為経・小笠原光宗らと直義党の諏訪直頼の代官祢津宗貞と野辺原(須坂市野辺)で戦い、8月には富部河原、善光寺、米子城(須坂市米子)で戦った。また守護の斯波義種に反抗して元中4年/嘉慶元年(1387年)善光寺に村上頼国、小笠原清順、長沼太郎らと挙兵し5月に平柴(長野市安茂里)の守護所を攻めて漆田原(長野市中御所)で戦い、8月には守護代の二宮氏泰が篭城する横山城を攻め落とし、続いて生仁城(千曲市雨宮)も攻めた。北信濃の南朝方香坂心覚(根津一族と思われる香坂氏6代目)との抗争にも高梨五郎・高梨時綱らの名前が出てくる。
室町時代中期

更に応永7年(1400年)に信濃守護職小笠原長秀との間で行われた大塔合戦では、高梨氏や井上一族など北信濃衆は500騎を動員しており、この数は信濃国人衆の筆頭(信濃惣大将)である村上氏と同数で、東信濃の名族海野氏の300騎を上回る。応永10年](1403年)に細川慈忠が守護代として入国した際には村上氏や大井氏、井上氏らが従わず段の原や生仁城で戦ったものの敗走し、翌年12月には高梨左馬助朝秀とも合戦となった。このように南北朝時代に善光寺平北部地域一帯から越後の一部にまで及ぶ勢力拡大に成功した様子が伺われる。室町時代には、高梨惣領家と山田高梨・中村高梨・江部高梨を併せて高梨四家と呼ばれていたと記されている(「上高井歴史」より)。
地理的に近い越後にも所領があったことから越後の勢力の影響を高梨氏も受けるようになる。寛正4年(1463年)12月に、信濃守護職を得た越後守護上杉房定の一族上杉右馬頭が高井郡高橋(中野市西条)に攻め入った際には、高梨政高がこれを討取ってしまっている。高梨氏は村上氏と共に、北信濃の一大勢力として認識されるようになる。
戦国時代以降

高梨政盛の代に、越後守護代の長尾氏と関係を強めるため、長尾能景に娘(政盛と能景は同年代であるため、政高の娘である可能性が高い)を嫁がせるが、その娘が産んだ長尾為景(上杉謙信の父)が越後守護代となり、室町末期には越後で守護上杉家と長尾家の争いが起きると、高梨氏もそれに巻き込まれることになった。
永正4年(1507年)、為景が越後守護上杉房能を殺害する際に支援している。また房能の兄で関東管領上杉顕定が為景を一旦は放逐するが、永正7年(1510年)の長森原の戦いに為景方の援軍として出陣して顕定を敗死させている。政盛は永正10年(1513年)頃までに善光寺平北部の中野郷を奪取して本拠地と定め、高梨氏の全盛期を築いたとされている。しかしその年のうちに政盛が死去、越後では為景と新守護上杉定実の争いが起き、近隣の井上一族を始め北信濃の国人衆が上杉方に付き、唯一の長尾方として孤立していく事となる。更に善光寺平を手中に収めようとする村上氏との対立もあり、以後高梨氏は弱体化していった。
それでも政盛の孫の高梨政頼の頃まで独立性を保ってきたが、村上氏を撃破した甲斐国の武田晴信の侵攻を受け、弘治年間(1555 - 1558)に本拠地中野郷から信越国境に近い飯山郷まで後退した。その後、長尾景虎(上杉謙信)の支援を受けて一時的に所領を取り返したが、その後武田と長尾(上杉)の対立(川中島の戦い)の中で他の北信濃国人衆と共に上杉家の家臣化が進んでいった。
武田氏の滅亡後、北信濃を任された森長可が本能寺の変により撤退、代わって上杉景勝が進出するのに伴って高梨氏は旧領に復帰することができた。その後上杉家は、会津・米沢藩と転封を重ねるが、政頼の子・高梨頼親もこれに従っている。彼の子孫は米沢藩士として江戸時代に代々続いた。
この系統の他に、尾張や丹後または相模国などに移住した高梨氏もあったと言う。現在の高梨家の末裔として認知されている一族は尾張高梨家出身である。
歴代の人物

高梨盛光
高梨忠光
高梨高信
高梨忠直
高梨朝定
高梨政高
高梨政盛
高梨澄頼
高梨清秀
高梨政頼
高梨頼治
高梨頼親
高梨秀政
高梨頼清
関連項目

高梨氏館
於フ子
関山慧玄
たかなし たかなしし たかなしし *
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
Text is available under GNU Free Documentation License.

戦国武将一覧

?■■畠山氏
■富田長繁
■武田義統
■武田元綱
■武田元明
■武田国信
■武田氏
■武田氏信
■武田勝頼
■武田信栄
■武田信賢
■武田信玄
■武田信光
■武田信実
■武田信重 (安芸武田氏)
■武田信繁
■武田信武
■武田信廣
■武田信時
■平手政秀
■平手汎秀
■平清盛
■平頼綱
■別所長治
■豊臣秀吉
■北条義時
■北条顕時
■北条高時
■北条氏
■北条氏直
■北条重時
■北条政子
■北条貞時
■北条時行
■北条時宗
■北条時茂
■北畠具教
■北畠顕家
■明智光秀
■明智秀満
■毛利輝元
■毛利元就
■木曽義昌
■林秀貞
■林通具
■六角義郷
■六角義賢
■六角義治
■六角義秀
■六角定頼
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長野工藤氏
長野工藤氏(ながのくどうし、単に長野氏とも)は、伊勢国に勢力を持った有力国人である。元来は工藤氏と称していたため、他の長野氏と区別するために、「長野工藤氏」と呼称されている。
藤原南家 乙麿(乙麻呂)流の一族で、曽我兄弟に殺された工藤祐経の三男・工藤祐長が、伊勢平氏残党の討伐のため、伊勢国長野の地頭職となって安濃・奄芸二郡を給わり、その子・工藤祐政が長野に来住して長野氏を名乗ったのが、長野氏の起源である。
鎌倉時代から伊勢国中部の有力国人として君臨したが、南北朝時代に入ると、南朝方国司の北畠氏が伊勢に進出する。このため、長野氏は北朝方に与して伊勢の覇権を争った。ちなみに、この時代に書かれた『梅松論』にも「長野工藤三郎左衛門尉」という名乗りの人物が登場している。
南北朝時代が終焉した後も北畠氏との抗争は続き、1467年からの応仁の乱でも長野氏は西軍(山名宗全側)、北畠氏は東軍(細川勝元側)に与してそれぞれが争った。
戦国時代に入っても抗争が続いたが、やがて北畠氏に英主と言われる北畠晴具が現れ勢力を拡大し、また、近江六角氏の北伊勢に対する圧力も強まると、長野氏の第15代当主・長野藤定は次第に力を失っていき、1558年、藤定は晴具の攻勢の前に遂に屈服し、晴具の嫡男・北畠具教の次男・長野具藤(長野御所)を養嗣子として迎えた上で、長野氏第16代の家督を継がせた。これにより両家は講和し、長野氏は北畠氏の傘下となったのである。
晴具の没後まもなく、尾張の織田信長が伊勢に侵攻してくる。晴具の後を継いだ具教と、長野氏の当主である長野具藤は織田軍に抵抗したが、信長の攻勢の前に敗れ、北畠氏は信長の次男・織田信雄を、長野氏は信長の弟・織田信包を養嗣子として迎えた上で家督を譲ることを余儀なくされ、北畠・長野両家は今度は織田氏によって傘下に置かれたのである。
そして1576年11月、信長の命令で北畠具教が暗殺された後、長野具藤も田丸城で北畠一族もろとも殺される。信包も後に織田姓に復し、国人領主としての長野氏は滅亡した。
歴代当主

長野祐政【一】
長野祐藤【二】
長野祐房【三】
長野藤房【四】
長野豊藤【五】
長野経藤【六】
長野義藤【七】
長野光忠【八】
長野宗忠【九】
長野政藤【十】
長野藤継【十一】
長野藤直【十二】
長野通藤【十三】
長野稙藤【十四】
長野藤定【十五】
長野具藤【十六】
織田信包(長野信包)【十七】
系図

工藤 祐長 ┣━━━━┳━━━┳━━━━━━┳━━━━━━┳━━━━━━┳━━━━━━━━━━━┓ 祐政 有坂祐光 祐能 坂本祐氏 祐忠 祐朝 祐広 ┣━━┳━━┓  ┣━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┓  ┣━━┳━━┳━━┓  ┣━━┳━━┳━━┓ 祐藤 祐泰 祐村 祐政 祐宗 祐重 祐兼 祐賀 能氏 祐貞 祐宗 祐賢 祐継 祐盛 祐藤 祐泰 祐村 祐政 ┣━━━━┳━━━┳━━┓  ┣━━┳━━┳━━┓                 ┃ 祐房 雲林院祐高 祐冬 高景 祐景 泰祐 祐光 ◇                 友房     ┃      ┃ 藤房  分部氏へ                                     ┣━━┳━━┓ 豊藤 祐茂 祐経            ┣━━━━━━━━━━━┳━━━━━┓ 経藤 分部祐成 細野藤信   ┣━━┳━━━┓          ┃ 義藤 藤忠 川北藤照 細野氏へ   ┃ 光忠 ┣━━┓ 宗忠 教藤    ┣━━┳━━┳━━┓ 藤直 藤継 祐藤 政藤                                   ┃        通藤            ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━┓           稙藤 細野藤光    ┣━━┳━━┳━━━━┓      ┣━━━━┳━━━━┓    藤高 藤定 藤光 雲林院植清 細野藤敦 分部光嘉 川北藤元 ┣━━━━┳━━━┓           北畠具藤 織田信包 藤勝
一族・家臣団

分部氏
分部光嘉
分部光信
細野氏
細野藤光
細野藤敦
雲林院氏
川北氏
なかのくとうし *
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
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